大宰府鎮護の神
この宝満山で神祭りが行なわれた始まりは、天智天皇の御代、今から1300年以上も昔、九州一円を統治する大宰府政庁が現在の都府楼跡の地に遷された時、鬼門に当たる竈門山(宝満山)に、西の都大宰府鎮護のための神が祀られました。
頂上の上宮が建つ巨岩の下からは皇朝銭、奈良三彩など、奈良時代から平安初期の国家的な祭祀が行なわれていたことを示す数々の品が出土し、ある時は大宰府の平安を願って祭祀が行なわれ、またある時は遣唐使渡航安全や外敵からの守護が祈られてきたのです。


玉依姫命と竈門神社創建
天智天皇2年(673)には、心蓮上人(しんれんしょうにん)がこの山に籠もって修業中に玉依姫命が現れ、朝廷によって上宮が建てられて、これが竈門神社の創建となります。爾来、大宰府官人の崇敬は厚く、公の祭祀が行なわれ「延喜式」に明神大社(みょうじんたいしゃ)として記載されています。


伝教大師
最澄は瀬戸内海で暴風雨に遭い、難破した遣唐船の修理を待つ間、約一年間を筑紫で過ごし、延暦22年(803)この山に参籠して薬師仏4体を彫って竈門神に入唐求法、航海の安全を祈りました。それ以後、高僧の往来が盛んで平安時代末から鎌倉時代には、麓の北谷・南谷・内山に学問を専らにした衆徒300坊、修業を専らにした行者70坊の坊舎があったと伝えられ、優れた宗教文化が華開いたのでした。


武将の信仰
室町時代の成立に大きな力となった武藤資頼(むとうすけより)を初代とする小弐(しょうに)氏は、元寇の際に宝満山麓に有智山城を築き、竈門神社に戦勝を祈願して、現地の最高指揮官として元軍にあたり大きな武勲をたてたのです。
戦国時代末期、岩屋城の戦いで有名な高橋紹運(たかはししょううん)も宝満山に城を築き、竈門神社を守り神としました。しかし、長く続いた戦乱は竈門神社・有智山寺を大きく疲弊させましたが、天正15年(1585)豊臣秀吉は宝満山に三層の高楼を建て、時に筑前国を領した小早川隆景は宝満山に登拝し、諸堂の再建に着工しました。江戸時代になると、黒田藩の歴代藩主の信仰も厚く、堂社・什器の寄進、修復を行い、次第に復興に向かったのです。


山伏
往年に比すべくもないものの、江戸時代には、25坊の山伏達が峰入りの修業をしたり、加持祈祷を行い人々の災いを祓いました。この頃には、良縁を願っての十六まいり等、庶民の登拝が盛んになり、宝満山は信仰の山として人々の心に浸透していきました。
しかし国の政策による神仏分離によって仏教的なものが全て廃された明治初期には、山伏達はこの山を去ったのです。
竈門神社は、初めは村社でしたが、御祭神が神武天皇の御母「玉依姫」であり、九州総鎮守の由緒深き神社であったことから、明治28年に官幣小社に列せられました。


そして今
現在は、縁結び・方除・厄除の神として、四季を通じて宝満山に登拝する人々の心身修練の場として、信仰の山として多くの人々に親しまれています。 



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